北海道のダンス(98年ダンス年鑑「日本全国ダンス地図」より)
進取の精神でダンスに取り組む北海道
日本列島最北の地・北海道。中央を南北に大雪山を中核とする山地が走り、東には釧路、十勝、西には石狩などの平野が広がる。
明治4年、北海道開拓使の庁舎が置かれた札幌を中心に、移民、開拓が進められ、大規模な畑作や酪農が発達するなど、
国内の農水産業の中核を為してきた地である。当初、わずか150人だったと言われる札幌の人口は、
現在では横浜・大阪・名古屋市に次ぐ170万人の大都市に発展。全道の総人口も600万人を数えている。
こうした人口流入の波を受けて生まれた北海道。「新しいものを受け入れる」という開拓民の進取の精神を受け継ぎ、
戦前から、インテリ層を中心にダンスが盛んに踊られていたという。加えて、冬が厳しい寒冷地という気候条件が、
インドアスポーツであるダンスを広く普及させる要因となったことは想像に難くない。事実、170万都市・札幌のダンス人口は10万人とも言われ、
特にシニア層の厚さやレベルの高さは、東京都比べても決して見劣りしない。
現在、北海道のシニア選手には中南・中川組、栗田組ら全国規模の大会での優勝者も多く、
「若い頃スキーやスケートで鍛えた下半身が、ダンスに生かされている」という言葉も頷ける。
そうした厚いアマ選手層を生み出す土壌として、サークルや公民館活動の充実ぶりには目を瞠るものがある。
行政の理解のもと、全道各地にあるフロア・音響・照明など設備の整った生涯学習センターがダンスサークルに積極的に開放されており、
初心者層は確実な広がりを見せている。平成5年11月、北海道アマチュアダンス協会設立。
翌年4月には、帯広アマチュアダンス協会が帯広市体育連盟に加盟を果たす。これは、ダンスが道内で初めて体協加盟を果たした快挙として
全国に報じられた。加えて、LACD北海道ブロック設立(平成6年)。平成9年2月には第1回北海道アマチュアダンス競技会が開催され、
北海道で初めてのアマチュア主催競技会として話題となった。
また、ジュニアスクールを開講する教室も増え、小・中・高校生が教室に通う姿が多く見られるのも特徴の一つ。
平成7年10月1日には真駒内アイスアリーナで「ダンスマイライフフェスティバル」が開かれ、史上最高の1万人の参加者を集める大盛況。
生涯学習の名に相応しい様々なダンスの楽しみ方が披露された。
また、札幌福祉センターでは、6年前から中山昌子先生の指導のもと視力障害者を対象とした講習会を開設。
「回転量を正しく踊ることに難しさはありますが、全盲の方と色弱の方がペアを組んで、踊る楽しさを満喫しています」とは中山先生。
また、車椅子ダンスの普及に努める佐藤保子先生(札幌)の活動も注目される。
この他、ダンスの国際交流として、北海道と台湾の友好姉妹都市宣言や、ロシアのナホトカ市と小樽市のダンス交換留学(小林英夫先生)など
海外への積極的な動きが見られるのも、北海道ならではの開拓精神のなせる業と言えよう。
北海道ダンス界の礎を築いた人々
しかし、今日の北海道ダンス界の隆盛が一朝一夕で築かれたわけではないのは言うまでもない。
東京や大阪などと同様、戦後の混乱期を ”ダンス復興” に賭けた先達の尽力。その上に今日の発展の礎が築かれたことを忘れてはならないだろう。
奇しくも昨年(平成9年)は北海道ダンス教師協会(HATD)の創立50周年。昭和22年の創立に携わった120名のダンス人のうち、
現在も3名の大先輩が現役の教師として後進の指導に当たっている。下鳥 忠氏(札幌)、若林直治氏(小樽)、加茂勇一氏(室蘭)。
残念なことに平成10年1月30日、大先輩の一人で日本のダンス界に数々の功績を残した日向省二氏が逝去された。
日向氏は昭和21年に北海道で最初のダンス教室「円山社交舞踏研究所」(現在の「ボールルームスギヤマ」)を創設。
教師協会の要職を務める傍ら、多くの資料文献をもとに「新社交ダンス教程」(講談社)などのダンス教本を執筆。
先頃も「最新ダンス用語辞典」を日本舞踏教師協会(JATD)から刊行したばかり。
日本ダンス界をリードしてきた日向先生の活躍が、北海道ダンス界の発展及び競技選手層の拡大に多大な貢献を果たした事を忘れてはなるまい。
改めてご冥福をお祈りします。
さて、教師協会の草創期を語る上で欠かせない人物、松田武雄氏と杉山安次氏(いずれも故人)にも触れておきたい。
松田氏は戦前からアレックス・ムーア氏と交流を深めるなどダンスへの造詣が深く、北海道大学教授にしてダンス教師協会の会長を努めた信念の人。
堪能な語学力を活かし、今では幻の名著と言われる「社交舞踏の常識」を世に問い、学者らしく理論的なダンス指導に定評があった。
その後、日本舞踏競技連盟(日競連の前身)顧問を務め、昭和34年に北海道で初めて開催された第9回全日本戦の誘致にも尽力された。
その第9回全日本戦(会場は中島スポーツセンター)で陣頭指揮をとったのが、当時、日本舞踏競技連盟北海道総局局長の杉山氏である。
杉山氏は終戦直後に東京で本格的にダンスを習い、昭和22年の教師協会設立に参加。全日本戦では、当初、関西での開催が予定されていたが、
松田・杉山両氏をはじめとする北海道側のたっての希望で実現の運びとなった。日競連が”ダンスの全国普及”という命題に取り組むきっかけとなった
大会でもある。現在ほど交通手段の発達していなかった当時、旅券や宿の手配を含め、開催に至るまでの苦労は今も語り草になっている。
4千人を越える入場者を集めた当大会は、地元札幌の伊坂・岡田組がアマチャンピオンに輝き大歓声に包まれた。
また当大会では、マスコミ各社の協力が大会成功の大きな要因となった。当大会は日本舞踏競技連盟と北海道放送(HBC)の共催となっているが、
これは北海道放送10周年イベントとして全面的な協力を受けたもので、試合の模様は3時間半に及ぶTVの生中継でお茶の間に届けられた。
当大会の成功以降、地元マスコミの冠が付いた「道新スポーツ杯」や、登別の老舗ホテルがサポートする「第一滝本杯」なども開かれるようになり、
地域に根ざした支援企業との協力体制が整い今日に至っている。
多彩なインフラの整備も北海道の自慢
全日本戦開催を契機に北海道のダンス熱、本物志向が強まったことも特筆される。
第2・3回の全日本プロチャンピオン、三舛良一氏(小樽出身)を輩出していたとはいえ、東京との情報量・速度・技術レベル差に
危機感を抱いた教師協会は、地元・砂川市の出身で日本ダンス界育ての父とも言われる助川五郎氏(当時、日競連東部総局局長)に相談。
昭和42年にマイケル・ニーダム氏を招いたのを手始めに、46年、リチャード・グリーブ氏、47年、ピーター・イグルトン氏と、世界チャンピオンを
次々と招聘し積極的に講習会を開催した。
そして昭和48年、前年に開かれた札幌オリンピックのスケート会場・真駒内アイスアリーナで、
第23回毎日杯全日本戦が開幕。来道されていた三笠宮殿下ご夫妻が臨席され、14年ぶりの北海道大会も大成功の裡に終幕となった。
北海道出身のチャンピオンとしては前述の三舛氏、昭和61・62年の全日本プロラテンを連覇した奥村三郎氏が挙げられる。
ダンスホールや練習場も数多く、中でも札幌市のソシアルダンスクラブ1番館は、道内一の100坪を超えるフロアで人気を博している。
そしてダンスショップも長い歴史に裏打ちされて活況。ダンスシューズの栗林は、ダンス用のオリジナルシューズを作って25年の老舗メーカー。
また、札幌の中心街に自社ビルを持つ OTOI は、高級ブティックを思わせるディスプレイとダンス愛好家のニーズに沿った豊富な品揃えが特徴。
帯広市の千舞は、道東各地への行き届いたサービスで高い信頼を得ている。更に、ソシアルブティックきりん(札幌)は、シニア競技選手5名で
経営するユニークなショップで、年配者のダンスライフにこだわったサロン的な雰囲気が喜ばれている。
こうして北海道のダンス界は、この50年の歩みの中で確実な飛躍を遂げてきた。
教室数は札幌市内だけでも約50軒。全道では100軒になろうとしている。
ちなみに日本最北端の教室も、もちろん北海道。宗谷岬を望む稚内市の静間ダンススクールでは、酷寒を吹き飛ばす熱いレッスンが・・・
北の大地・北海道のダンス人は、開拓精神を胸に抱き、今日もダンスの腕に一層の磨きをかける。

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